秋葉ダムの沿革

天竜川は古くから急流で知られ、かつ豊富な水量を誇る河川である。
こうした地理的要因は水力発電の絶好な適地であり明治時代から注目されていた。
大正時代に入ると大同電力社長で木曽川の水力発電事業において名を馳せた福澤桃介が天竜川電力を設立し、天竜川の水力発電事業に乗り出した。
1926年に大久保発電所を建設したのを皮切りに南向ダム・泰阜ダム・平岡ダムが長野県内に建設されたが、太平洋戦争によって事業は中断した。

ヒットの裏に意外な逸話

寺尾聰について。
1981年には、ヨコハマタイヤのCM曲だった「シャドー・シティ」に続き「ルビーの指環」が大ヒットし、「ルビーの指環」は第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭’81グランプリを受賞した。
さらに、TBS『ザ・ベストテン』では、「ルビーの指環」「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」が3曲同時にベストテンにランクインされ、「ルビーの指環」12週連続1位の栄誉を讃えた真紅の記念シートも設置された。
しかしながら、大ヒットした「ルビーの指環」は、当初、石原プロの関係者に聴いてもらったところ、「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と専務の小林正彦は難色を示したが、社長の石原裕次郎が「いいじゃないの」の一言でレコード化が決定した逸話がある。

懐かしのヘールボップ彗星

ヘール・ボップ彗星は、1997年に非常に明るくなった彗星である。
「1997年の大彗星」とも呼ばれている。
HB彗星と略称されることもある。
おそらく20世紀で最も広く観測されたであろう彗星である。
18か月もの期間にわたって肉眼で見ることができ、これはそれまで記録を保持していた1811年の大彗星の2倍にもなった。
ヘール・ボップ彗星は1995年7月23日に太陽から非常に遠い位置で発見され、太陽の近くを通過する頃には非常に明るくなるのではという期待が高まった。
彗星の明るさをある程度正確に予想するのは非常に難しいが、ヘール・ボップ彗星は1997年4月1日の近日点通過の頃には、予想通りかそれを超える明るさになった。

ビリージョエルのデビューまで

ビリージョエルは、ナチスから逃れるためドイツ南部からスイスを経てアメリカに亡命したアシュケナジム系ユダヤ人のハワード・ジョエルを父として、宝石商を営んだイギリス系ユダヤ人のハイマン家の娘を母としてニューヨーク市ブロンクスに生まれ、ロングアイランドの新興住宅地に育つ。
14歳の頃に、エコーズという名のバンドに参加。
ヒックスヴィル高校に学んだが、バーでピアニストとして働いていたために英語の単位を落とし、中退を余儀なくされた。
「俺はコロンビア大学に行くんじゃなくてコロムビア・レコードに行くんだから高卒の資格なんか必要ない」と言い放ち、最終的には事実コロムビア・レコードと契約した。
中退から25年後の1992年、ビリーは同校にエッセイを提出して卒業資格を認定されている。
ミュージシャンとしては、故郷のロングアイランドを拠点に活躍していたハッスルズのメンバーとして活動した後、彼と共にグループ内で活動していたドラマーのジョン・スモールとのユニット、アッティラを結成して2枚のアルバムを発表。
しかし、アッティラは鳴かず飛ばずのままで結局解散してしまう。
当時ジョエルは鬱病に悩まされており、極度の神経衰弱から精神病院に入院している。

ハイファイセット

1977年、ブラジルのシンガーソングライター、モーリス・アルバートの「愛のフィーリング」になかにし礼が歌詞をつけたカバー曲「フィーリング」が大ヒット。
第28回NHK紅白歌合戦にも出場。
以降、山本潤子のソプラノ、山本俊彦のテナー、大川茂のバス・ヴォイスによる抜群のコーラスワークと都会的で洗練されたアレンジで、ニューミュージック全盛の時代に高い人気を誇った。
1980年にいったん活動停止するが、1年後に活動再開し、4ビートジャズを日本語の歌詞で歌うなど新境地を開拓した。
1984年には「素直になりたい」がシチズンのCMソングに使われてヒット。
1992年10月の活動休止まで、シングル曲26枚、アルバム19枚を残し、1994年9月に解散。
解散後、山本潤子はソロシンガーとして、山本俊彦はプロデューサーとして活動しているそうだ。

ジョン・ウェスト

ジョン・ウェストはアーテンション、ロイヤル・ハントなどのバンドで活躍した。
そんな彼が、のどの付近にガンが見つかった。
ある医者からは歌手生命の終わりを告げられたが、別の腕の良い医者の手術によりガンは治り、現在もシンガー活動を続けている。
手術の影響か、以前の歌声とは声質が違っているが、実力派であることに変わりは無い。
ロイヤル・ハント在籍時のアルバム「The Mission」はD,Cクーパー在籍時の「Moving Target」に次ぐ最高傑作と評されている。

インストで初めて

オリコンチャートの習慣1位に、インスト曲として初めてなったのは、坂本龍一のenergy flowだ。
1999年3月から第一三共ヘルスケアリゲインEB錠のCM曲として使われた。
放映開始当初は、スクランブル交差点の真ん中で坂本がこの曲をピアノで演奏する様子を見下ろす視点の映像が使われていたが、その後坂本出演部分がカットされたものとなった。
元々CMで使われた30秒だけが作曲されたが、CMで評判が上がり、CD発売が決定したため、急遽他のパートを追加し一曲に仕上げた。
CMで使われた音源はアルバム『CM/TV』に収録されている。
2005年には坂本のアルバム『/05』でセルフカバーが行われている。
2008年にはスケボーキングが同曲をリメイクしたヴァージョンをシングル「elegy train」に収録している。
坂本はこの曲に対してそれほど思い入れがないこと、なぜ売れたのかが分からないというコメントを幾度となく残しているそうだ。
脱力する。

リックウェイン

プログレの巨匠、YESを何度も出たり入ったりしているキーボーディスト。
ジュール・ヴェルヌの名作SF小説『地底旅行』をテーマにしたライヴ・アルバム『地底探検』もヒットしたこともあって、リック・ウェイクマンの名はプログレッシヴ・ロックのファンに知れ渡ることとなる。
それだけではない。
小林邦明の入場テーマ「ザ・ルームPart1」でも有名だ。
古いプロレスファンなら聴いた事がある筈。
前田明の凱旋試合も、この「ザ・ルームPart1」だった。
当時はこういう同時期にリングに上がっている選手どおしでも、入場曲の使い回しというのは普通だったのだろうか。
入場テーマといえば、その選手のもう一つの顔みたいなものに今ならなっているが、当時は前座がテーマ無しで入場したり、今ほどには重要視されていなかったのかもしれない。

実際に意味は無い

ラウドネスのクレイジーナイト、「MZA」のコールは有明MZAの事かと思っていたが、MZAができたのはもっと後の話だった。
それで、実際のところはスタジオで高崎が「MZA」と叫んでいたのをそのままマックスノーマンが気に入って使った、という事らしい。
ちなみにSDIはStrategic Defense Initiativeの略、これは戦略防衛構想の事だそうだ。

ジャパニーズ

日本のメタルが栄えていた頃、ラウドネスやVOWWOWだけでなくEZOも居て、アンセムも居て、デッドエンドも居て、リアクション等も居た。
面白い位にバラエティに富んでいた時代。
世界的に見ても粒がそろっていたと思う。
アメリカナイズされていたバンドもあれば、独自の路線をいくバンドもあった。
面白い時代だっただろう。