エラオバサンの活躍

1934年11月21日に17歳のエラは初めて聴衆の前にデビューした。
ニューヨークのハーレムに存在したアポロ・シアターにおけるアマチュア・ナイツでダンスを披露する予定だったエラは、自分の前に出演した地元のダンス・デュオの演技に圧倒され、予定を変更し自分のアイドルであるコニー・ボズウェルのスタイルを真似て歌を披露した。
その夜のコンテストに勝利した彼女はチック・ウェブズ・バンドのBardu Aliに見出され、バンドへの誘いを受けた。
翌1935年からエラはハーレムのサヴォイ・ボールルームでチック・ウェブズ・バンドをバックに歌手活動を開始した。
このバンドと共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作成している。
当時病気で療養中であったチック・ウェブの為にヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』が17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげた。

ポール・ドラローシュ

1832年、35歳の若さで美術アカデミー会員に選出される。翌1833年には国立美術学校教授となるが、1843年、教え子たちが新入生に対して行ったしごきで一人が死亡、アトリエ閉鎖・辞任を余儀なくされる。
ドラローシュはオラース・ヴェルネの下の娘ルイーズを情熱的に愛した。
1835年、彼はルイーズの頭部を元にした『天使の頭部』を出展している。
ルイーズは1845年に亡くなるが、彼はこの衝撃から二度と回復できなかったと言われている。
妻の死後、彼は『キリストの受難』の小さな連作を制作した。
ドラローシュは理想によって悩むことはなく、それを気取ることもなかった。
しかし厳しい製作は彼と彼の中心思想との間に何の神秘も介在することを許さなかった。
制作は常に大衆に対してわかりやすく、カンヴァス上で詩人になろうとし苦しみ画家たちが全て精力を消耗することから、彼が逃げたせいであった。
キリスト教信仰の創始者、彼と同時代を生きたナポレオン・ボナパルトのような人物、遠い歴史上の人物を描くことで本質的には同じ手法が彼により用いられた。
『フォンテーヌブローのナポレオン』、『セント・ヘレナ島のナポレオン』、『死刑宣告の後法廷を発つマリー・アントワネット』などである。

チャカカーン

驚異的な歌唱力で1970-80年代にR&Bの女王と呼ばれ、以降も精力的に活動。
非常にアクティヴな性格で、レコーディングの際、アレンジが気に入らないと、殴りあうこともあったらしい。
ホイットニー・ヒューストン、メアリー・J・ブライジなど、多くの女性歌手に多大な影響を与えた。
女性歌手ではアレサ・フランクリンと共にR&Bを代表する存在と言われる。
芸名のChakaはアフリカの言語で「炎」「赤い」という意味。
本来は「シャカ」と発音するのが正しいようだが日本では「チャカ」で通っている。Khanは最初の夫の姓。
実弟にシンガー・ベーシストのMark Stevens、実妹に、シンガーのTaka Boomがいる。娘のIndira Khanもシンガー。

JALウェイズ

1991年より「ジャパンエアチャーター」の社名で福岡からホノルル線を最初にチャーター便とウェット・リース便の運航を開始し、1999年に現社名に変更した。
タイに訓練拠点を持ち、タイ人の客室乗務員を多数採用することで運航コストを下げることが別会社を設立した大きな目的の一つであったが、タイ人を採用したのは教育程度が高く、しかも接客に定評があることと、日本から多数の直行便が就航しており、乗員の行き来がしやすいという理由もあった。
コスト低減に貢献した上に、タイ人を主体としたサービスも好評なことから後にチャーター便だけではなく、「リゾッチャ」サービスが実施される日本航空のリゾート路線を中心に定期便を運航するまでになった。
のちにフィリピン人の客室乗務員も採用するようになった。

海軍陸戦隊

西洋諸国の海軍では、軍艦の操作を担当する水兵とは別に、戦闘を担当する海兵隊という制度を有していた。
これは現在のアメリカ海兵隊のような水陸両用戦部隊ではなく、海上戦闘で敵艦船への強行接舷後に強行移乗・制圧を行う部隊で、陸軍よりも即応性の高い陸上戦闘部隊としても使用された。
西洋式海軍の建設を始めた日本でも、当初はイギリス海軍にならい、海軍の兵科として海兵隊が置かれた。
しかし、「強行移乗による制圧は時代遅れである」との声で1876年に廃止され、海兵軍楽隊のみが軍楽科として存続した。
他方、日本海軍では海兵隊のほかに、必要に応じて一般の水兵を武装させて陸上戦闘に充てることがあり、これを海軍陸戦隊と呼んでいた。
海兵隊の廃止後は、海軍陸戦隊のみが陸上戦闘を受け持つことになり、その一般規定として1886年11月5日に「海軍陸戦隊概則」が定められた。
海軍陸戦隊は常設でなく、艦艇の乗組員から必要に応じ陸戦隊を臨時に編成するものとされた。
これに対して鎮守府などの陸上部隊の人員で地上戦闘部隊を作ることもあり、特に特別陸戦隊と呼んだ。

パーソンズ

1983年結成。
当初は女性ボーカリストのJILLとギタリストの本田毅の2人のユニットという色彩が強く、バンド名もNOTHING PERSONALを名乗っていた。
その後、元AUTO-MODのベーシスト、渡邉貢とドラマーの藤田勉が加わり、1984年にバンド名をPERSONZに改名。
新宿LOFTを中心としたライブ活動を展開する。
1987年にメジャーデビュー。
ドラマ『ママハハ・ブギ』の主題歌「DEAR FRIENDS」や、オリコンチャートNo.1アルバム『DREAMERS ONLY』がヒットした。
1992年に本田が脱退。その後しばらく正式メンバーとしてのギタリストは不在であったが、1996年に元ガラパゴスの田中詠司が加入。
2001年に田中が脱退した後、2002年から本田が復帰。
以降、オリジナルメンバーで活動を続けている。
2005年には、すべて新曲のライブでもレコーディングでもない世界初のDVDアルバム『RODEO DRIVE』を発表。
この作品は編集無しの一発録りという、珍しい構成になっている。

サラエボ事件

ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年のベルリン会議でオーストリアが占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていた。
多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいた。
オーストリア当局はセルビアにとって重要な祝日である聖ウィトゥスの日の6月28日をフェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定した。
この日はまた、1389年にセルビアがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦いの行われた日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする結果ともなった。

ベルンハルト・フォン・ビューロー

1900年10月16日ホーエンローエ・シリングスフュルスト侯爵の引退に伴い、後任の帝国宰相に任命される。
宰相としての最初の業績は、外交の大家たる堂々とした駆け引きで帝国議会を抑えつつ、清への帝国主義的侵略を推進したことである。
ビューローはしばしば、帝国議会で政府の外交政策を擁護することに時間を費やした。
これは、ヴィルヘルム2世の多くの失敗を隠すためでもあった。
1905年6月6日ヴィルヘルム皇太子の成婚を記念して侯爵に陞爵した。
1906年4月5日帝国議会に出席中、過労とインフルエンザのため倒れる。
1ヶ月後、公務に復帰するが、この頃同性愛の疑いを掛けられるなど、スキャンダルに見舞われる。
この事件はさほど、政権にとって打撃にならなかったが、1908年10月28日ヴィルヘルム2世は、イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」のインタビューでドイツの内政と外交について語ったが、その侵略政策的な内容によって内外から激しく批判された。

REMのインディーズ時代

アルペジオを多用したギターサウンドと、メロディアスなベースラインが特徴である。
この時期の作品には歌詞が一切掲載されておらず、スタイプの歌唱も聞き取りづらかった為に、「アメリカ人でも殆ど何を歌っているのかわからない」と言われたほど。
そんなミステリアスな雰囲気を秘めた、ややニュー・ウェーブ調で、パンク・ロック、サイケデリック・ロック、カントリーを彼らなりに消化した作風は早い時期から注目され、デビューアルバム『マーマー』はローリング・ストーンの1983年ベストアルバムに選出された。

プラターズ

1953年にハーブ・リード、コーネル・ガンター、ジョー・ジェファーソン、アレックス・ホッジの4人で結成。
やがて作曲家のサミュエル・バック・ラムに見出され、彼がマネージャーを務めるが、コーネル、ジョー、アレックスが脱退しトニー・ウィリアムス、デビッド・リンチ、ポール・ロビ、女性メンバーのゾラ・テイラーを加えて本格的に活動を始める。
マーキュリー・レコードと契約後の1955年、「オンリー・ユー」が大ヒット。
R&Bチャートでは7週連続1位を記録する。
続く「グレート・プリテンダー」は全米ポップチャートでも1位となり、その後も「トワイライト・タイム」、「煙が目にしみる」など数々のヒットを飛ばした。